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自由と成長

人間を成長させるのは自由なのか。

 

精神の自由は、根源的に保障されている。というか、保障されるまでもなく存在している。

表現の自由についての講義で習うこと。

 

源氏物語の世界観の前提にあるもの。

三従の教え、女三界に家なし。

そこから唯一自由になれる手段、それは出家だった。

当時は仏教が流行していて、出家は尊いこととされていたので、

たとえ夫であろうとも、それを妨げることは倫理的に許されないことだった。

 

仏門に入るための前提条件、それは出家。自分の持っている全てを捨てること。

家族の縁さえも対象となる。就労能力のない女性であっても子どもであっても、例外ではない。

 

インドで現在仏教は少数派だけれど、何故仏教生誕の地でそうなっているのか。

それは、仏教が自由を求めることを根源にもつ思想ということが原因となっている。

インドの有名な身分制度カースト制。

その正当性は、カルマヨガの考えに由来している。

神から与えられた役割を淡々とこなしていくこと。その先にしか、魂の成長はないという思想。

 

魂を成長させ、自由になるという目標は同じでも、何もかも捨てるところから修行が始まる仏教とは、正反対の方法論。現体制、既得権益を攻撃するための旗印として掲げられることになった。結果、宗教戦争に破れた仏教は、インドからチベット方面に脱出することになった。

 

日本に伝来した際も政争の論点のひとつともなったが、海外の先進の知識としてアドバンテージがあったこと、自然そのものの力を畏れ神とする日本の神道と、個人の魂の成長を目指す仏教は目指す方向性が重ならず矛盾する思想ではないことから、排斥し合うことはなく、受け入れられていった。

 

水稲耕作を国家の基礎とする日本では、水源の管理が政治の根幹であって、水源地である山そのものを神としている場合が多い。元々、神が人間各個人に干渉するという思想ではなかった。仏教は個人が精神的に成長するための方法論として成立しているので、抵触する点はなかった。自由を求めていることから、体制からの自由という旗印として掲げられない限りは。

 

自分に課せられた義務を果たすこと。それは、通常は何より尊いこととされる。そこから逃げることなく、唯一自由になる手段。それが出家だった。

 

権利があるところには義務があり、そこに縛られ苦しみが生まれる。権利ごと放棄することで、自由になれる。全てを捨てることで、義務に縛られず、全ての命あるものを、平等に愛することができる。

 

自分は結婚が無条件に素晴らしいことだとは考えない。そこに義務が生まれ、それを果たすことに縛られる。自らを義務に縛った、その先に自由があるとすれば、自分の義務を淡々と果たしていくしかないだろう。

 

結婚を無条件に素晴らしいことだという考えは、カトリックの思想から来ていると思われる。カトリックでは、結婚は神が決めた運命ということになっていて、だから、死がふたりを分かつまで、解消されることはない。神が決めた運命が具現化しているという考えに従えば、結婚は絶対的に正しい事であり、無条件に素晴らしいことだと考えるのは当然のことだ。逆に言えば、だから人間の意思で解消することは許されない。

 

あるいは家制度の思想から言えば、家という自分のチームに他チームから新メンバーが移籍するわけだから、祝って当然とも言える。

 

だけど、現代日本人は、そんな思想に基づいて、結婚を捉えているだろうか。実際には、良く分からないまま、欧米の価値観になんとなく乗っかってるだけで、どうして祝われなければならないのか、という事まで考えてはいないだろう。

子どもに結婚を推奨する親にしても同じことだ。結婚からは義務が生まれる。そこに我が子を縛る意味を、本当に理解して奨めているのだろうか。

 

自分は、結婚を無条件に素晴らしいことだとは捉えないけれど、自らを義務に縛り、それを果たす覚悟を持ってするならば、否定はしない。

自分自身は、相手が自分を尊敬していてくれて、その尊敬に値する人間でい続けたいと自分が思うような人物が現れたら、その時は自らを義務に縛ったとしても、そこにあるのは苦しみではなく、成長なのではないかと考えている。

 

我思う、故に我在りと言った人がいたけれど、人間はそんなに単純じゃないと思っている。鏡を見ずに自分の姿は認識出来ない。精神の面で言えば、別の人間こそ鏡にあたるのではないか。自分が、誰かのために美しく在りたいと願うこと。それが成長の原動力になる。

 

人間が、自分自身の為に美しく在りたいと思うことができれば、それは素晴らしいことだけど、現実にはそんなに強くない。誰かのために強くなれる、強くなりたいと思うこと。もし、そう思える人と出逢えたなら、それは、自分が自分自身の為に美しく在りたいと思える程強くない人にとっては、確かに幸せと言えるだろう。

しかし、それは自分自身の弱さを認めた上でのことなので、他人に祝ってもらうことではないと思うが。

 

ひとりで、自分自身のために、清く正しく明るく強く生きられたら、それが一番素晴らしいこと。それが無理だとしても、自分自身が尊敬する誰かにとって恥じない自分として、生きていくこと。それが自分が考える、成長する方法論。